くどけんのエピソード

くどけんのエピソード

いろいろなエピソードをご紹介したいと思います。
笑いながらお読みいただければ幸いです。
(順次ご紹介していきますのでお楽しみに)

「へばまんつ」事件・・・!?

「へばまんつ」事件

中学校三年生の2学期、東京から秋田県に転居することが決まった。
家族的には突然の出来事ではなく、いずれ両親の故郷である秋田県に移住することは話されており、家族全員「田舎」の秋田暮らしには賛成していたから、その決定には驚かなかったものの、中三の2学期というタイミングは微妙だった。
両親からは、転居の時期についてははっきり聞かされておらず、まだ先だろうと思っていたため、自分としては都立高校に入るべくそれなりの受験勉強をしていたから、まず思ったのは「高校の選択」についてであった。
正直地元に高校がどれだけあるのか、私立はあるのか、などの情報は皆無。しかしあまり深刻には考えなかった。成績は優秀とは言えないまでも公立高校のどこかには入れるだろうと思っていたし、高卒後は早く働きたいと思っていたから、気持ち的には受験戦争とは無縁だったのだ。
だから秋田への転居は、殺伐とした受験戦争からも遠ざかることができる!と内心楽しみでもあった。特に念願だった「アウトドアライフ」が実現できるのではないか、とワクワクしていた。

練馬の中学校より転校のための文書(たぶん紹介状のようなものか成績証明書のようなものの類だと思うが)を持参し、一時寄寓先となった真中地区の叔父宅より至近の中学校へ母親とともに訪問した。もちろん学ランを着用して、である。対応してくれた先生は教頭先生だったかと思うが、その教頭が「来週文化祭」だという。「やった、ラッキー。いきなり文化祭か。どんなことやるのか」と胸が躍った。
しかし、教頭からの通告は冷淡だった。
「だから、文化祭が終わるまで自宅学習しといてください。文化祭終了後すぐに業者テストがあるので。」-だから来るな。と言わんばかりの言い方であった。
てっきり大歓迎されるものと思っていたから、この扱いはショックであった。まさか異分子の参加を嫌ったわけではないだろうが、今思い返すと、この措置は文化祭直前で転校生への対応が適切にできないと配慮されただけだったのだろうが。
「それと、髪型」。
転居時、ようやく「髪型」と言えるように伸びた髪の毛を指摘され、「うちの学校は五分刈り以下なので」と言われた。
「あ、そうなんですか」、練馬の中学校では剣道部は皆五分刈りだった。部活の方針だったというわけではなく、2年生第三学区大会で対戦した丸坊主の開成中学がめちゃくちゃ強かったから俺らもやろう、開成中学剣道部にあやかり短くしていたものだ。だから五分刈りには全く抵抗はなかった。

およそ10日間の自宅待機を経てようやく転校初日を迎えた。
校内は、転校生なぞめったに来ないから、たぶん皆興味津々でもあったのだろう。しかし廊下を歩く私に直接声をかけるものはいない。授業中はもちろん大館訛りの先生以外皆無言だった、昼休み中はクラス内で班編成しそこで弁当を食べるので、そのときに多少会話するくらいだった、が周りの会話は私にとってはほぼ外国語。
「んがや~因幡晃のコンサートさいぐんだよな~、わ~チケット買えねくてや~」
「ばかぁ、『今受験だやづ、何がコンサートや!』ってかっちゃに怒られて、チケット買えねかったでば」
秋田弁が方言としてかなり理解しにくいものであることは、今までのお盆・正月の帰省である程度予想はしていたし、理解もしていた。しかし、それも高齢者世代に言えることで、子供はテレビの影響もあり標準語で話す、と思い込んでいた。
「こりゃ、ヒアリングからしっかり鍛えないとだめだな」と考え、皆の会話をなるべくしっかり聞き取ろうと心に決めた。

転校初日は、なんとか終わった。先生方の中にはかなり訛りの強い先生がいたが、理解できないほどではなかったし、「これは習いましたか」と時折確認してくれるなど、かなり配慮されていると感じられた。
「よし、これならなんとかやっていけそうだ。」そう思いつつ、下校することとした。

登下校は自転車通学である。南中学校は真中地区と二井田地区の中学校が統合してできた学校で、真中・二井田の集落からも遠い。従って多くの生徒が自転車通学をしていた。私も自転車置き場の自分の自転車にまたがったちょうどそのとき、事件は起きた。

「くんどう、へばまんつ!」
いきなり声をかけられた。
私に声をかけたのは、二井田のN。同じクラス同じ班。だから声をかけてくれたのだろう。

「くんどう」は多分工藤のことだろうと推測できた。
が、「へばまんつ」という言葉は私の辞書にはない。聞き違いだろうか?
「まんつ」は「待つ」の意ではないか?では「へば」は?
瞬時にいろいろ考えたが、全くわからない。
そうしているうちに、Nも「あ、わからないんだな」と考えてくれたのかもしれない。

「すたらまんつ」
「へば」が「すたら」に変わった。「まんつ」は変わらない。
あ、やはり「まんつ」は待つの意で、「もう少し待ってろ」とかの意味なのではないか。なんで待たなければならないのかわからないが、ではもう少し待つことにしようか・・・

そのとき、自分では、意味不明に「うん、うん」と頷いていたような気がする。
私とNの周りには同級生・下級生が注目しはじめ、ギャラリーと化していた。

しかし、「待つ」という意味ではなかったらしい。
Nはしびれを切らしたように、新たなフレーズを口にした。しかも右手を顔の横に挙げて振るというジェスチャーをつけて。

「くんどう、まんつバイ」

ようやく理解できた。「へばまんつ」、「すたらまんつ」、「まんつバイ」は全て別れの挨拶
「さようなら」であったのだ。

「あ、バイ・・・バイバイ、また明日」さすがにまだ「へばまんつ」とは言えなかった。

このエピソードは、あれから40年以上経過した現在でも鮮明に覚えており、むしろ「傾聴講座」やコンフリクトマネジメント研修等で引用させてもらっている。
その意図は何か。
もちろん、秋田弁や訛りの面白さを紹介したり、ましてや揶揄したりすることではない。二井田のNと私の間のこのエピソードの中に「異文化交流」や「多様性の尊重」の概念に通じるものだがあると感じたからである。
「理解しあいたい」というお互いの姿勢がベースにあれば、言語的なハンディキャップは乗り越えることができる、という仮説や、長じて学習したカールロジャースのカウンセリング理論やバイスティックのソーシャルワーク7原則の傍証になりうるものとして、後付けではあるものの振り返ることができたからである。
と同時に、異なる環境背景がある中で専門職同士の連携作業が必要となる昨今の「多職種協働体制」構築のモデルとして引用できるとも考えている。

そしてこの事例は最近さらに、踏み込む価値があると考えている。
二井田のNは、なぜ「さようなら」と言い換えなかったのか、という事実である。
Nは、もちろん「さようなら」という言葉も知っているし、言い換えもできたはずである。でも決して言い換えをしなかった。ある意味意地悪にも聞こえるが、そうではない。人格的にそのような意地悪をするような人間ではないことが、あとで十分理解することができたから。
言い換えをしたくなかったのである、多分。
それは、Nなりの地域アイデンティティの主張であったのではないだろうか。「郷に入っては郷に従え」という考え方にも似ているがたぶん、それとも違う。
我々は大館人である。という強い主張であると同時に、それで東京からの異分子に対抗しようという姿勢ではなく、「わかってくれよ、俺も受け入れるから」という“協働”の姿勢と考えたのである。

こじつけ、といえばそれまでだが、この体験は私の“協働”体験の原点と位置付けている。